『ディダケー(教え)』という1世紀のキリスト教関係の文書。
その中に次のような文言があった。「主の軛(くびき)を負うことができるなら完璧(かんぺき)であろうが、それができないなら、お前にできることをせよ」。「主の軛を負う」というのは、イエスの教えに百パーセント
忠実に生きることだろうか。
そんなことは恐らく誰にも出来はしないだろう。
しかし、だからと言って、イエスの教えを投げ捨てては
いけない。「お前にできる(範囲内の)ことを(精一杯)せよ」
という“教え”だ。私は勿論、クリスチャンではないし、イエスの教えに
忠実に生きようとも思ってはいない。
しかし、この「教え」は、不完全な1人の人間として、
胸に迫るものがある。【高森明勅公式サイト】
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